アイドルという絵画
先日、友人とf(x)について話していた時にふと友人がこんな事を言った。
「チャンミンもチャニョルもダンス苦手だったり好きじゃないのかもしれないけど練習して上手くなったし、少なからず努力の跡が感じられる。けどソルリは苦手なのは仕方ないとしても頑張ろうという意思が感じられない」
友人の言葉を一言一句正確に覚えてはいないが概ねこのようなことを言っていたと思う。
ちなみに私は東方神起をきちんと追いかけたことがないのでチャンミンがダンス苦手なことは勿論、デビュー時からどのくらい上達したのか知らないのだが特に下手という印象は持ったことはない。(why以降の曲をちらほら見たことあるだけなので本当に印象なのだが)
私はアイドルとは歌やダンスを通じて自分自身を表現する表現者だと思っている。それと同時に代理人であるとも思っている。
例えるならアイドルはキャンバスだ。
一人一人、真っ白なキャンバスもあれば真っ黒なキャンバスもある。重さも材質も質感も誰一人として同じものはない。そのキャンバスに作曲家や作詞家や振付師がメロディーや歌詞やダンスといった「色」を加えていく。全く同じ色を塗っても、キャンバスに載せられるとまるで違う色のように変化する。そうして出来上がった絵は「コンセプト」という額縁に入れられて私たちの目に触れられる。
クリエイター達はアイドルという媒体を通して自分の世界観を表現するのだ。
だから私はソルリが「やる気がない」と叩かれることにあまりピンとこない。流石に明らかに振り付けを踊っていない時には、ん?と思ったが、(代理人としての役割を果たしていないからだ)フォーメーションが後ろの時に髪をいじったり、曲が終わるとすぐに裏へハケようとしたりすることは彼女が持つキャンバスの特色であり、=やる気がないという図式は私の中では成り立たないのだ。
そもそも私がアイドルに求めるものは夢である。
憧れて近づきたくてなりたくて、でも決して叶うことはない、そんな夢だ。自分が持ち得ないものを持っている彼らや彼女たちはまさに夢の具現化だ。
愛している、という甘い言葉でコーティングされたほろ苦い夢をいつまでも見続けていたい。
しかし時が過ぎてゆくのは止められないように、夢もまたいつかは覚めてしまうものである。
だから私はアイドルが何年もの練習生生活を経てもなお必死に練習し、「もっと新しい姿をお見せできるように頑張ります」と高みを目指し続ける姿を見て安心する。ダンスを間違えて笑ってしまう姿を見て安心する。
あぁ、アイドルも私と同じ人間なのだ、と。
この完璧な顔も歌声もスタイルも、いつかはハリを失い、高音が出なくなり、脂肪が付いてしまうなんて考えたくない。しかし必ずその時は来る。夢は覚めるとわかっているからこそ、夢に溺れていく傍らには垣間見えるアイドルの人間らしさを詰め込んだ酸素ボンベを持っていたい。
アイドル自らその夢を壊すようなことはしてはいけない。それは脱退だったり熱愛だったり不祥事だったりするのだが、どれもボンベの酸素を吸いながら溺れ続けている私を無理やり現実世界へ引き上げるようなものだ。
自分でも矛盾していると思う。アイドルを夢というファンタジーに形容する一方で、人間らしさというリアリティを必要としている。
しかしその矛盾は誰もが抱えているものではないのだろうか。
きっとやる気がない、努力の跡が見えないとソルリを嫌う彼女は「辛くて苦しいけど自分を犠牲にしてでも頑張るアイドル」という夢に溺れていたいのだと思う。
ソルリのキャンバスにその特性は無かった。それだけのことだ。
余談だが、レッドベルベットデビュー時にオーラを感じないと言っていたその友人に「Ice Cream Cake 良いじゃん」と言わせた彼女達に乾杯。
願はくばソルリとジョイが肩を並べてセルカを取ることを。